Special 01百年の歴史について

百年分のしごと。
百年分の情景。

野口工務店は百年分の仕事が育ててきた会社です。社員一人ひとりが日々汗を流
し、全員で積み上げた実績と信頼の上に、今があります。実績地図やインタビューを
糸口に、歴史の断片を感じてください。

※地図上のポイントはおよその場所を示しています。

Monologue

モノローグで映し出す リアルな百年

百年という長い時間の中で、社会背景は絶え間なく動き、技術も組織も少しずつ変化
を遂げてきました。野口工務店の歴史をともに歩いたOB/社員の声から、当社が積み重ねた
時間がにじみ出します。

第5代社長 小川 秀樹氏

野口は、鉄道工事と都市土木に強い「施工管理」の会社。
Monologue01

かつての当社は、多くの“作業員”を抱える会社でした。親方の地元・親族など縁故で集まったファミリーが宿舎で生活し、現場から次の現場へ移動するように仕事をしていました。しかし、2000年代に入って組織を大きく改革。技術社員全員が“施工管理者”の会社になりました。これは自ら手を動かすのではなく、協力会社に指示を出してものづくりを進める役割。しかも、土木工事から躯体工事、構造物建設まで、一式で請け負える幅の広さが野口工務店の特長です。
特に強みを発揮しているのが、鉄道現場と都市土木の分野。これらの現場は特殊で、列車の運行や交通規制の都合上作業できる時間に制限があり、一般のお客様への配慮も必要です。許可されている時間に交通を再開させるため、何時まで工事して、どう安全に片付けるか、その判断力が現場の責任者に求められるわけです。
今の野口工務店は、そういう技術・ノウハウを、入社後の研修や現場の先輩たちから十分に学ぶことができる環境です。実際、普通校を卒業し未経験から施工管理者になった先輩もいます。見て聞いて自分でやって身につけて、いずれは工事部長になろうとか、若い社員にはそういう野心を抱いてほしいと思っています。

(2017年インタビューより)

常務取締役 藍原 英夫

施工管理の裁量は、時代を追うごとに大きくなっている。
Monologue02

私が入社したのは平成2年。新卒採用が始まって初代の社員です。入社してすぐ大林組に出向し、4年ほど、大林組の制服を着て施工管理を経験しました。商業高校出身で土木を知らなかったので、将来施工管理者になることを見据えて、出向中の2年間は会社の支援で夜間の専門学校に通わせてもらっていました。
出向から戻って最初の現場は、池袋のJR駅の改良工事。まだ23歳だったと思います。その時、池袋駅のJR・私鉄各線すべての工事を野口工務店が請け負っていたので、池袋には当社の社員・作業員がのべ100名はいましたね。私自身は、その後もずっとJRの営業線を担当。品川駅に約10年、新宿には13年通いました。それぞれひとつのプロジェクトではあるんですが、土木は並行する工程や追加が多く、土中に障害が出たりすることも多い。しかも電車が絡むと短時間での作業が多く、細かく何段階にも分けたり、一度片付けて次の日にやり直したりと工期が長くなるんです。ただし若い社員には色んな現場を経験させたいという思いから、近年、長期の現場ではなく、できるだけ多くの現場を経験できるよう調整しています。
人材をどう動かすか、どれだけ効率を上げるかは現場監督次第です。短期的な工程計画や見積り・交渉も現場の所長が行います。さらに近年、図面を理解して設計者に修正を依頼したり、材料や二次請けの協力企業を手配したり、工程ごとの品質管理をしたりと、一次下請けの裁量はますます大きくなってきていますね。

(2017年インタビューより)

第4代社長 前会長 野口 英博氏

潰すのなら自分の手で…という気持ちで社長になった。
Monologue03

私は初代社長・野口雷象の長男として生まれたものの、体が弱かったので後継者には考えられていなかったと思います。それでも幼い頃は父と一緒に現場を回っていました。当時、現場の人はみな家族同様です。作業員の奥さんや子どもも一緒に宿舎に住んでいて、大きな釜で作った味噌汁を食べた記憶があります。
野口工務店に入社したのは、カリスマだった雷象亡きあとに社内の統制がとれなくなり、古株の社員から「このままでは潰れる」と相談されたからでした。私自身は外資系の製薬会社に勤務していたので、半年悩んで、入社を決意。「潰すなら自分の手で」というのがその時の率直な思いです。
当時の野口工務店は、現場作業員を120人ほど雇用していたものの、企業としてはまだまだ未熟でした。まず社員教育をはじめ、積極的に1級施工管理技士の資格を取らせるようにしました。資格がなくても親方になれる時代でしたが、資格をとって公共工事の一次請けを始め、ゼネコンに依存する体質からの自立を目指したわけです。加えて、大林組のOBを頼って安全部を組織し、労災の予防に本気で力を注ぎました。
平成8年に社長に就いてからは、コンサルタントとともに会社の規則や給与体系を整え、バラバラの契約だった職長クラスを正式に社員として迎え入れました。バブル崩壊後の不景気の中で、会社のしくみを整えたんです。

(2017年インタビューより)

第3代社長 南雲 三代治氏

野口雷象が、上に立つ者の度量や人を公平に見ることを教えてくれた。
Monologue04

私が大学を卒業したのが昭和41年。当時の野口工務店は大林組専属で、東京駅地下などの大きな仕事をしていました。私は商社志望でしたが、土木のおおらかさが性に合っていたんでしょう。新卒で入った銀行を辞め、昼間に野口の仕事をしながら、2年間専門学校に通って土木建設を学びました。
大規模な宅地造成を多く担当しましたが、須崎の御用邸や昭和天皇陵の建設にも携わり、両陛下のご来訪をお迎えしたこともあります。特別な工事ですから誇らしく感じるところはありましたね。
入社したもうひとつの理由は、野口雷象社長の人柄です。親分肌の人でね、上に立つ者の度量や、人間を公平に見るということを教えられました。人の上に立つなら弱い者ほど立場を考えてやるべきだとも。当時は日雇い作業員が大勢いて、世間では特別視されていましたけれど、雷象社長は「連中は仕事のプロだ」と評価していました。
(平成元年に)雷象社長が亡くなった後、野口工務店は、給与体系を日給計算から月給制に移行しました。技術者採用のためです。熟練技術者が減っていくと予想される一方で、元請けがやっていた施工管理の一部を一次下請けが担う流れになりつつあり、技術者を増やす必要があった。高卒採用も始めましたし、中途採用や引き抜きは高給を以て募集する必要があったんです。東京駅、品川駅、地下鉄…と大きな仕事が重なっている時期で、売上も年間60億円ほどまで大きくなっていきました。

(2017年インタビューより)

阿部 征男氏

昔の現場は独立採算。
「社員」という概念ではなかった。
Monologue05

先輩から、昭和31年頃の糠平ダムの工事について聞いたことがあります。当時は、生コンクリートを運ぶのに「ケーブルクレーン」を使っていたという話。ワイヤーにバスケットをぶら下げた設備で、行きは重いからたわむんだけれど、施工場所で中身を空けるとザーッと上がるって言うんです。止め方が難しいんだと言っていました。大きく振れるとなかなか止まらないんだって。
私が入社した(昭和44年)頃は重機は使っていましたが、作業員は出稼ぎの方が多かったですね。当時は、親方が自分の伝手で人を集めて連れてきていました。独立採算の現場がいくつもあって、親方が作業員の給与や仕入額を計算し、元請けとの交渉もしていた。毎月、野口本社に賃金の支払いに必要な現金を取りに行き、宿舎で親方からみんなに渡すわけです。親方も「社員」なんて概念ではなかったと思います。
組織が変わったのはオイルショックの後くらい(昭和50年代)でしょうか。建設の仕事が少なくなり、個々の親方が仕事を確保できないからひとつにまとまろうと、自然の流れだったように思います。会長になっていた野口雷象自身が、トップ営業として直請けの仕事を持ってきていました。
自分で現場管理をした仕事では、後楽園駅(新駅)を造る工事や、品川駅新幹線軌道の工事桁の架け外しが印象に残っています。品川では、終電後から始発までの間に8連の工事桁を一気に撤去して線路を引き直す計画があった。失敗できないから、駅の海側の空き地に仮設で桁を組んで何度かシミュレーションした記憶があります。グループに分けて作業周知を徹底し、本番では予定より早く作業を終えたんです。

(2017年インタビューより)

伊藤 桃太郎氏

宿舎からの送迎はボンネットバス。技術は人力から大型機械の時代へ。
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私が仕事を始めたのは昭和29年。昭和30年には足尾ダムにも行きました。高さ120m・幅100mもある現場で、トロッコを押したり機械の解体をしたりしたかな。
東京に出てきて昭和34〜35年頃に携わったのは、方南町の地下鉄工事の現場。建物ギリギリまでの開削工法で、浅いところは手掘りして、中は機械で掘り進めていた。夜にキャタピラを通し、朝には穴の上に15cm厚の鋼板を置いて、その上を車が通るんです。地中から土を出すのは人力だった。スケッパーで土をリヤカーに入れて運び、ホッパーを使ってダンプに積んでいました。杭打ちをする時に使ったのは、ドロップハンマー。大きなウィンチでハンマーを吊り上げて、落下の重さでボーンボーンと打ち込む機械です。雨降りは仕事ができないから、そこは休んでたね。もうちょっと後の時期になると、大林組初だというクレーンも使われるようになった。物を吊って走れるというのは便利だったね。
会社になったばかりの野口工務店は本社も宿舎もなくてね。北葛西のハス田を自分たちで埋め立てて事務所と従業員宿舎を建てました。当時、会社はボンネット型の木炭バスを持ってましたね。15人ぐらい乗るやつ。後ろで薪を燃やして、お湯を沸かして、蒸気を出して走るバスです。現場への送迎に使ったんです。
当時は、地下鉄だ、深礎だ、潜函だと忙しかったな。記憶に残っているのは、昭和55年の袖ヶ浦(東京ガス LNG地下式貯槽工事)。外壁が約100m。地中壁を造って、中を巨大な掘削機で45m掘り出して、1m20cmのコンクリートを打って、さらにその下を45m掘ったんです。皇太子殿下も見学に来たんだ。すごかったよ、道路に絨毯を敷いてね。

(2017年インタビューより)